カリタス畑のイチゴの初モノ。不揃いだけど、甘くて美味しいです。
今日からまた非公開ミサになってしまいました。
急だったので連絡が届かず、ベトナム人の若者が6人ミサの時間にやって来ました。
ごめんなさい。
●主の昇天(祭)
聖書箇所:使徒言行録1・1-11/エフェソ4・1-13/マルコ16・15-20
2021.5.16非公開ミサにて
ホミリア
わたしが若い頃の話です。司祭として働いていた教会に、一人の男子中学生が通って来ていました。外見はその年代にしてはちょっと大人っぽくて、ませているというより、不良っぽく見えてしまう子だったのかもしれません。彼は学校の友人である信者の男の子に誘われて教会に来たのですが、そのうち、その友人と一緒でなくても教会に来るようになりました。どうして中学生の男の子が喜んで教会に来ているのか、わたしにはちょっと不思議でした。珍しいですからね。
間接的にですが、彼がある時、母親に言った言葉を聞きました。こう言ったそうです。
「お母さん、教会っていうのは、すごいんだぜ。神父さんっていう人がいて、どんな子どもも同じように見て、同じように大切にしてくれるんだ」
そんなの当たり前ですよね。でも彼にとっては当たり前ではなかったのでしょう。今まで、学校でもその他の場所でも、成績や外見、素行によって判断され、「お前はだめだ」と言われ続けていたのではないかと思います。
「どんな子も同じように見ていてくれる」
これがまさに彼にとって、福音だったのです。彼は何年かしてその教会で洗礼を受けました。
今日の福音はマルコ福音書で、復活したイエスが弟子たちに現れ、弟子たちを派遣する場面です。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
「福音」ってなんだろう、って思い巡らしているうちに、あの男子中学生を思い出しました。
イエスは二千年前のパレスチナで、「神の国の到来」の「福音」を告げました。それは「神が王となってくださる」というメッセージでした。先祖の時代から人々は人間の王(支配者)に虐げられて来ました。イエスの時代にはローマ皇帝がパレスチナを植民地として支配し、重税で人々を苦しめていました。その中でイエスは「神が王となって、あなたがたを、不正な支配者から解放してくださる」と語りました。それはまさに福音でした。神はあなたがたが苦しんでいるのを見て、知らん顔しているような方ではない。神は今まさにあなたがたを救おうとして、近づいて来てくださっている。それがイエスの「神の国の到来」のメッセージでした。
別の言い方をすれば、イエスの福音とは「神がアッバであること」でした。「アッバ」はアラム語で子どもが父親を呼ぶ時の言葉です。「お父さん」とか「パパ」。イエスは親しみと信頼を込めて神にそう呼びかけましたし、弟子たちにもそう呼んでいいのだと教えてくださいました。「主の祈り」とはそういう祈りです。神に「アッバ、お父さん」と呼びかける祈りなんですね。
イエスがその「アッバ」とはどういう方かを最もはっきり語った言葉は次の言葉です。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)
これこそが当時、宗教的エリートたちによって蔑まれていた貧しい人々にとっての「福音」でした。アッバである神は天の高みから人間を見て、律法の基準で採点し、あの人は合格、あの人は不合格とレッテルを貼るような方ではない。貧しいからダメだ、障がいを持っているからダメだ、あんな職業だからダメだ、女だから子どもだからダメだ、異邦人だからダメだ、神はそんな見方をなさる方ではない。本当にすべての人を例外なく、ご自分の子どもとして、かけがえのない存在として見ていて、いつくしんでくださる方だ。これがイエスの伝えた福音でした。
今、こうしている間にも、パレスチナでは多くの大人や子どもが殺されています。
今、こうしている間にも、香港やミャンマーでは、多くの人が自由を奪われています。
今、こうしている間にも、入管の収容施設で難民申請が認められずに、苦しんでいる難民がいます。
今、こうしている間にも、コロナ禍のために経済的に追い詰められていく人々がいます。
自分たちと違う国籍だから、違う人種・民族だから、違うグループだから、どうなっても構わない、なんていうとんでもない世界が広がっています。その中で、わたしたちはすべての人が同じ神の子であり、互いに兄弟姉妹だという福音をいただいているのです。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」
一方ではわたしたちの中にも、やはり、自分はこんなに頑張っているのだから他の人たちと一緒にされたくない、というような思いもあるでしょう。自分はあの人たちとは違うとか、自分たちはあんな国・あんな民族とは違う、という思い。そしてやっぱり少しでも優位に立ちたい、競争に勝ちたい、というそんな思い。それはわたしたちの中にもありますし、そういう面をすべて否定することはできないと思います。でも、それでも、競争や勝ち負けの世界がすべてではないし、そうなってはならないのです。
どんなに違いがあっても、神はすべての人を同じように愛してくださっている。根本のところで、すべての人は神の前に平等。一人一人に例外なく、かけがえのない神の子としての尊厳がある・・・この福音が「全世界」の、「すべての造られたもの」に届きますように、そしてわたしたち一人一人がその福音を運ぶ器となることができますように、今日、心から祈りたいと思います。